浄土真宗の葬儀とは

ご葬儀は誰にでも訪れる人生最大の仏縁による儀式です。

葬儀は「亡き人を送り出す」「弔う」という他人事の儀礼ではありません。亡くなった方のご縁を中心にして、遺族が故人との今迄のご縁に感謝して、故人に思いを募らせ、故人が結んでくれた仏との縁、仏のみ教えに出遭い本当の自分を知る尊い機縁なのです。

故人を偲び、読経念仏して、仏と向き合い、自分を知らされる過程を経て、悲しい出来事が再生の道となり、生きる道が明らかに成る。

私たちは、日常的にテレビを見る感覚で他人を観察し、自分と他人を比べて優越感と劣等感に左右されながら、自分の立つ本来の位置を見失ってしまいます。人の死も他人事であり、身近な人の死によって初めて、自分の死を意識し、今自分が死んだらどうなるのだろうと想像力をはたらかせます。そして、故人がお浄土から、あたふたしている自分を見て、どんな風に思うのか、故人から私に掛けられた願いはなんだろうと、非日常的な感情や気持ちが自然と湧いてくるのです。この想像力こそが仏のはたらきであり、自分の立脚地が定まり、非日常的な人生最大の学びの場となるのが葬儀です。

日常的に済まされていた他人事から「主体性を持つ私事」に顛倒(てんどう)することこそが葬儀の意義であり、この仏縁を生かしてほしい、この死を通して人間として成長してほしいと願われているのが、亡くなった人、つまり仏様に成ります。

お清めの塩の意味

葬儀が終わり、自宅に帰った際に塩を自ら撒き、亡き人を「穢れ」として排除する風習は浄土真宗では行いません。本来、亡き人を敬い感謝するはずが、一転して穢れた悪霊に変化させたことに対し、何の疑念ももたずに従う行為は、自分の死を恐れ、受け入れず、他人事にして、一時的に安心する人間の防衛本能に他なりません。

この行為が如何に亡き人を傷つけ、自分を清らかな人間であろうとする願望に基づく行為であるのか。他人を貶める行為が、如何に稚拙で愚かな行為になることに気づく必要性こそが、本来亡き人から願われていることではないでしょうか。

亡き人は、無残な死、悲しく痛ましい「穢れを祓う」行為を最愛の人々に向けられ、何をどう受け容れるのでしょうか。死人に口なしで済ませられる問題ではありません。

「死もまた我等(われら)なり」と念仏し、受容する姿勢が、亡き人からの問いかけに応える意義を持つあり方につながっていけるのではないでしょうか。

「門徒もの知らず」とは、「門徒もの忌知らず」からきており、門徒は穢れを忌み嫌わないことから生まれた言葉です。

友引の意味

友引に葬儀も通夜もしないという迷信があります。これも亡き人を悪霊扱いし、死を無視し、向き合おうとしない精神性の現れです。仏滅に結婚式を挙げないのも、友引と同様に中国から伝わる歴注である「六曜」の考え方です。六曜での友引の本来の意味は、「相友引とて勝負なし」であり、陰陽道でも同じ内容の運勢に成ります。

六曜は、日本に室町時代の初めに伝わった時刻の占いで、三国志で有名な軍師である孔明が立てた軍略とする説もありますが、非常に疑わしく、仏教とは全く接点がありません。

人格や人間の尊厳よりも迷信が先行する思想は、大変危険な行為に繋がりやすく、人を殺せという占いが出れば、集団で殺しかねない考え方です。

占いで人生が決まるならば、全く主体性が生まれない生き方になるでしょう。生きている時は、友達として大切にしていたにも関わらず、死んでしまえば関係性は閉ざされ、悪霊として葬られる。この集団心理に依れば、その友達の人生や生き方、生きる権利などを全く尊重しない、傍観者の見方を肥大化させ、常に悪いことは他人のせいで、自分は無関係という立場に至ります。

親鸞聖人は、日の吉凶をえらばず、左右されない生き方を説いています。世間体がそのまま六曜から生まれた迷信の考え方に繋がり、人と同じ考え方でなければ他人に受け容れてもらえないという、人間の根本的な不安が本質にあることを、聖人は800年前から見抜いていたのです。

親鸞聖人は、吉凶、どちらに転ぶか分からない自分の人生、結果がどうであれ、自分で受け容れられる生き方を求めた人であります。

法名とは

仏のみ教えに照らされて、我々が生まれた意義と生きるよろこびに目覚める為に、これから聞法生活を歩む者の仏法の名前のことです。本来は生きているうちに本山にてご門主より帰敬式(おかみそり)を受け頂く名前です。

帰敬式を受けていない方がお亡くなりになった際には、所属寺の住職が執り行い法名をいただきます。

ほかの宗派では「戒名」といい、厳格な戒律を守った修行者につけられる名前で、位号として「信士・信女・居士・大姉」などは修行方法の条件、形態を表わしています。

浄土真宗の法名は、戒律や修行方法を問わず、無条件に一人残らず阿弥陀如来の法のはたらきによってかならず救い取る、摂取不捨(摂(おさ)め取って見捨てない)のこころをいただく名前に成ります。

「釋〇〇」という法名をいただきますが、釋は釋尊(お釈迦様)の弟子として、仏になる道として南無阿弥陀仏を伝え、世間の名前や職業が何であれ、仏宝僧の三宝の前では、全てが等しく救われる平等の世界観を表わしています。

国連が2015年にニューヨークで行われたサミットにおいて、全会一致で採択されたテーマであるSDGs(Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)の標語は、 「No one will be left behind 誰一人取り残さない」であり、阿弥陀如来の智慧と慈悲が国連の理念と同じことを証明しています。

この一致した真実性は、いかに念仏が、時空を超え、国を超えた普遍的性を持っているかを物語っており、現代社会に通じる公共性、倫理性の証であると思います。

中陰法要と追善供養

中陰とは、死んでからまた生まれ変わる中間(中有)を意味し、その期間が四十九日とされ、その間は生と死の中間、輪廻転生の六道(地獄、餓鬼、畜生、天、人、阿修羅)の間を彷徨う、と考えられてきました。

また、四十九日目を満中陰と言って死者の穢れが無くなるので「忌明け」とされていますが、実際は遺体の腐敗が終わる頃を指しているようです。 追善供養とは、死者の冥福を祈って行われる供養のことです。本来はインドのヒンドゥー教における崇拝の形式を指しています。花や足をすすぐ水を捧げ、神殿から神像を取り出した後に食べ物を捧げて、神殿に戻すという偶像崇拝の形式そのものをいうのです。

ちなみに仏教は偶像崇拝ではありません。

ヒンドゥー教は、原始仏教が生まれたのちに平等社会の実現に恐れをなした王族が、仏と神(バラモン教)を習合させたことで、権力とカースト制を維持するために生まれた権力者にとってはとても都合のいい宗教です。日本に定着した帝釈天、水天、梵天、大黒天、韋駄天、弁財天などは全てヒンドゥー教の神様です。

ヒンドゥー教と混同した日本の習俗化した仏教では、中陰と追善供養、先祖崇拝などの周辺的要素が重なり層を作り上げました。この結果、人が亡くなってから7日ごとに、生前の功徳に対する裁判が行われるとされ、死後の行き先、つまり六道が決まるとされる、死者儀礼となったのです。

そこで、故人の霊が無事に極楽浄土に行くことができ、成仏するようにと7日ごとに追善供養するわけです。しかし、死後の世界を私たちが変えることはできません。

親鸞聖人は、父母の孝養(追善供養)の為に一度も念仏したことは無いと言われたそうです。幼少期の頃に両親を亡くしている親鸞聖人が両親を深く憶(おも)わないはずがありません。

浄土真宗では、阿弥陀仏のはたらきによって、亡くなればすぐに極楽浄土に往生し、仏に成るという考え方ですので、亡き人が六道の苦しみを彷徨うという不安はありません。

したがって浄土真宗における中陰とは、亡き人の死を受け容れる為に、自分が如何に無力であるかを知り(自力無功:罪責の念は自力を過信しているが故の苦しみです)、限りのないいのちに生かされている自己に目覚め、連綿とつながり合ういのちに感謝して、亡き人との遺徳を確かめ合う過程と考えています。

つまり、亡き人は「私の事は阿弥陀様に任せて大丈夫だから、あなたこそが阿弥陀仏のみ教えに遭い、お念仏を通して私の死を受け容れながら、あなたの生まれた意味を考え、再生の道を切り開いてほしい」と願われている仏縁に他なりません。

親鸞聖人は、追善供養を中心とするあり方を問う習俗的要素の強い仏法(祖霊崇拝)よりも、仏法による自分自身に対する問いを中心と捉えました。すなわち特定の父母を救うという仏教の周辺を含む包括的な考えより、全ての父母が自分の親となり仏となって、自分自身が問われているという中心的要素に気付いたのです。

ご法事とは

法事(法会)とは、一般的に身内などの家族や親戚が集まって、「故人の冥福を祈り」、その霊を慰める仏教的な儀式をいい、追善供養を指しています。

しかし、お釈迦様は霊の存在を弟子に聞かれても、答えていません(無記)。その上で無用な論争は、苦しみからの解放という目的に対し意味を持たないと答えました。霊とは、人の恐れや迷い、苦しみから生じる、つまり煩悩が引き起こす現象だとして、煩悩の原因が我執(渇愛:自己愛)によるもの、その為の救済を説いたのです。

また冥福とは、「冥土の幸せを願う」という意味で、冥土とは死者の霊魂が行く暗黒の世界を指し、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を意味します。故人の冥福を祈る行為とは、「死んだら暗黒世界である地獄・餓鬼・畜生に堕ちるだろうけど、何とか幸せになってね」であり、これが追善供養の意味です。そして菩提寺とは菩提=「死後の冥福」ですから、死後の冥福を弔う(他人に同情をかける:上から下に恵みをたれる)寺という意味に成ります。

この為、追善供養として法事を捉えていない浄土真宗のお寺は、菩提寺とは言わず、同情はせずに共感する立場、つまり他者の体験する苦しみを自分の事として汲み取る姿勢を持つ為、上下関係は存在せず「所属寺」や「手次寺」と言います。

この傾聴の姿勢がもたらす理論は、現代における臨床理論で科学的に実証されています。

カウンセリングや心理療法における、カウンセラー(聴き手)は、クライアント(話し手)との対等性を維持します。何故ならば、苦しみを傾聴し、共感する立場のカウンセラーが上位に立つと、クライアントが本来持つ自己治癒力が活性化しないことが立証されているからです。尚、対等性とは馴れ合いではなく、お互いが尊重し合える関係性、つまり浄土真宗の、御同行、御同朋の精神性に基づいているのです。

もし皆さんが亡くなったら、救済原理の無い冥土での幸せを祈られたいと思いますか?これが愛別離苦(愛する人と別れなければならない苦しみ)を抱えた家族や親戚が、上位から亡き人に対し言うべき言葉とは、とても言い難いと思います。死んだら暗闇の世界に落ちてお終いならば、虚しさだけが残り、享楽主義(生きているうちに欲望の全てを満たす考え)に走る事に成るでしょう。

浄土真宗では、故人は阿弥陀仏の本願力によって救われ、お浄土に往生して仏さまに成るのです。我々が亡き人に対し上からの立場で冥福を弔い、かつ祈る必要はありません。また、故人の死を通して、阿弥陀仏の教えに会う仏縁に感謝するのが法会(仏の教えに会う)、つまり法事であります。

法事とは、私たちが、故人の冥福を祈り、霊を慰めるのではなく、身を持って死を私たちに教えてくれた故人から、様々な問いと願いが掛けられていることに気付き、自己を振り返り、それに応えていく人生の節目を創造する歩みの事なのです。