お墓について

浄土真宗のお墓

浄土真宗では、お墓に御先祖様の霊魂が眠るとは考えておりません。それは単なる先祖崇拝ではない事を意味しています。お墓の前で亡き人に思いを馳せながら、仏法、すなわち阿弥陀如来のみ教えを聴聞する立場にならなければ、お墓は単なる石となり遺骨もただのモノとして向き合うことになります。

私もいつかお浄土に往く身であること、先にお浄土に往かれた亡き人に向き合う大切な聞法の機縁になっていなければ、亡き人とお参りをしている自分自身がつながって往ける世界観は生まれません。

亡くなれば、ご先祖様という神様になるという先祖崇拝の考え方は、お墓という外にある対象に、自分の心にある理想像を投影しているにすぎません。この投影で生まれる理想的世界は、依存することにより一時的な安心感を生じるだけで、人間が根本的に抱える防衛本能から生まれる「不安」のはたらきなのです。

仮に、墓=ご先祖様という理想的対象を心にイメージしたら(主体から客体:人間の神化)、その理想的世界から客観的に見た自分の像を心に取り入れなければ(客体から主体:神の人間化)、人間は成長できないのです。

この作業を「投影の引き戻し」(注1)と言います。つまり、理想世界にいる亡き人が、この現実世界にいる自分を観ているとしたら、何が生まれるかを創造してみるということです。煩悩だらけの自分しか観えないのではないでしょうか。亡き人と向き合うことで本当の自分を知る、この気付きの過程が人間の成長を促すのです。(注2)

浄土真宗の墓は、仏に成った亡き人からの声なき声をご聴聞する聞法生活の象徴であります。墓を対象にして主客関係を超えた(投影したものを自分の心に戻し、取り入れる)作業を繰り返すことで、自分の内的世界にある真実性に開かれていく、これが聞法生活の歩みであります。

お墓の意義

お墓の始まりは、約2300年前のお釈迦様の涅槃入滅の際にさかのぼります。

お釈迦様は、自分の葬儀は在家の信者に任せると言い残した為に、荼毘にふされた後、お骨を仏舎利塔に納め仏教信者に崇められ、護られたのがお墓の始まりです。

このお墓にたくさんの弟子たちが集まりお参りしたのは、お釈迦様の遺徳にすがり、依存した生活を送るためではありません。今もなお釈迦さまは、私たちに仏法を説いて下さる、つまり今現在説法(こんげんざいせっぽう)を共に聴聞する場がお墓でありました。

浄土真宗の墓の在り方も同じです。親鸞聖人が亡くなられてお骨を京都の大谷の廟堂に納め、関東の門弟が支援し、聖人の血脈が聖人の廟堂を護る留守職(住職)となり、その廟堂が今の本願寺の基になったわけです。つまりお墓が当初の聞法道場の基礎を成し、今は本願寺が聞法道場として受け継がれてゆき、阿弥陀仏のみ教えを、親鸞聖人と共に聴聞する場となったわけです。

お墓は、2300年前から仏法を聴聞するための象徴であり、遺骨を通して聞法道場の役割を担う大切な場であったのです。

墓石の文字

これまでの説明にあるように、浄土真宗のお墓は一つの世界観を有しています。自分が向くだけ(供養する)の対象に終わらず、向き合うことで創造し、お浄土と言う世界が開かれていくのです。

このため、墓石の文字は、先祖代々や○○家の墓と刻むよりも、「南無阿弥陀仏」(なもあみだぶつ)や「倶会一処」(ぐえいっしょ)と入れるのが望ましい訳です。

私達門徒は、浄土に生まれた諸仏、つまり念仏者として亡くなられ、念仏者として法名を頂いた先祖の方々と共に阿弥陀仏の教えを聞き、拝ませていただく意味があることを忘れないで、聞法生活を歩みたいものです。

永代讀経について

様々な理由により、身寄りのない遺骨をあずかること、あるいは引き取る事は可能です。いつでもメール等でご相談下さい。無縁仏の墓に納骨する事も出来ます。その場合は、永代讀経をお勧めしております。

永代経とは、永代讀経の略で、永代経という特別なお経が有るわけではありません。

永代懇志金を納めて頂きますと、永代経の札と過去帳、法名軸に法名が記され、永代に渡り、毎月の命日に讀経が勤められます。

このお勤めは、お釈迦さまが真実のお経として説かれた、浄土三部経を未来永劫読み続け、聴き続け、救われ続けるという願いを意味します。

永代経の札には、右側に亡くなられた方の法名が入り、懇志された方の名前が中心に位置します。これは亡き人をご縁として、私が亡き人に代わって真実のみ教えを頂き、永代に渡って伝えて往きますという名告(なの)りの証なのです。

永代供養で永代経料を納める考え方は、お経代の対価を意味し、主体である善人がお金で亡き人を救済する意味につながりますが、浄土真宗の永代讀経の考え方は、亡き人からの念仏相続と寺の護持伝承の意味合いが強く、自分の救済への志を伴うものです。

「はまなす墓苑」建立について


昨今、墓じまいや墓離れの話題がマスコミに取り上げられ、平成二十七年度で91,567件、平成二十八年に97,317件へと約5,000件の改葬が増加している現状があります。

この現象については、現代社会における核家族化、単身世帯の増加に伴い、独居の方が不安を解消させる手段として「墓じまい」を選択している例が多く、地方の過疎化、若者の都会への流出の現象がこの問題の根底にあるようです。

しかし、全国石製品協同組合の調査では、後継ぎのいない人でも平面墓地を希望する方が50%、永代供養墓(永代合葬墓)を併せれば75%の人が何らかの形で墓を求めており、墓を必要としない人は5%に過ぎないことが分かっています。

また、室内墓と樹木葬については、8割の方が結果的に不満を訴えています。このことから、「墓じまい」は増加傾向にある一方で、「墓離れ」についてはまだ深刻な状況ではないようです。

当山でも「墓じまい」の根本的な対応策として、ご門徒(檀家)拡充の趣旨の基、ご門徒以外の方からも西真寺に触れて頂くご縁としての、「寺ヨガ」「編み編むダーナ」「おてらくご」「竹燈籠まつり」に取り組み、「開かれた寺」を目指しております。

各寺院は、「墓じまい」の受け皿として永代供養墓を建立しておりますが、各寺院の檀家の為の終の棲家であり、既存の墓からの転換である以上、「閉ざされた寺」ゆえ一定数のみの展開でありました。そこで開発されたのが個別式の合葬墓付きの永代供養墓です。

個別式の永代供養墓とは、今迄お寺とは無縁で、尚且つお墓を守る担い手がいない場合でも、代わりにお寺が永代に渡り護持管理をする個別式のお墓のことです。一定期間個別に納骨可能の為、遺族が対象を定めてお参りができる「個別式」は、これ迄の合葬式の永代供養墓や樹木葬に対する不満の受け皿として、費用対満足度があります。

また、新規の方々が最初から合葬墓に納骨する場合、迷いや不安があり、新規の方でも安心して納骨できる器として機能する特徴があります。

以上の考え方から、後継者不要の個別型永代供養の墓「はまなす墓苑」を令和2年9月に建立致しました。

この「はまなす墓苑」は、今までお寺に縁のなかった方々のご要望に応えられる「開かれた寺」の実現を目的に開発された墓苑です。

穏やかな心を育み、永代に渡り安心できる、そして心の拠り所となる墓苑づくりを目指し、勤めてまいります。

注1 林道義は、『ユング思想の神髄』の中で、「神はこころ(ゼーレ)の中にあって働く力であり」「神が投影像としてしか、すなわち無意識的なものとしてしか存在していないことを意味している。この投影は引き戻されなければならない。引き戻しによって神はこころ(ゼーレ)の中に入る」「投影が引き戻されると、最高価値は神ではなくなり、別なものすなわち無意識が最高価値になる」と14世紀のドイツのキリスト教神秘主義者エックハルトの「神」と「こころ」(ゼーレ)関係についての理解をユングが言及していることを説明しています。無意識とは、人間の心の奥に潜む潜在意識の事ですが、仏教では既に「阿頼耶識」として説明されています。

注2 林道義は、同じく『ユング思想の神髄』の中で、「心理学的には本当の自分を認識する段階である。つまり投影を引き戻すことによってことによって投影していたものを自分の中の部分として区別し認識して、自分のマイナス面についての自己認識を強いられる」と述べています。この「投影の引き戻し」、すなわち「影の意識化」こそが、親鸞聖人が生涯をかけて取り組んだ人間成就の過程であります。